遊びの中でもけっこう「高級?」「教育的?」
 ただ楽しくてやっていたことが、長じてなんだか心の財産になっている。遊びには、単なる偶然や眩暈を楽しんだり、競い合ったり真似したりと、要素自体はいずれも他愛無い。百人一首だって、「ちはやぶる―からくれない」の条件反射で、札を取り合うだけなのだから、それ自体はなんら教育的でも高級でもない。
 しかし、一人残照の落葉を踏みながら散策する時、ああこの秋の夕暮は…などと頭の右隅で声がすると、いづこも同じなんだろうなあ、と左隅で声がする。知らぬ間に京の山郷に遊んでいる自分に気づく。こうした体験はずいぶん楽しいし、なにかに手を合わせたくもなる。こんな時は、「む」でなくて損したとは間違っても思わない。
 また、考えなくても口をついて秋の歌が出てくるもの嬉しい。遊びの嬉しい副産物である。

 毎年、知り合い5、6人で一杯やりながらかるた取りをする。
 年長者から年少者まで20歳の開きがある。私が最年少なのだが、最年長の男が毎年、このかるた会のために、参加者全員に手紙を送ってくれる。当日渡しではダメなのだ。
 便箋をきっちり上下2つに折り、上に上の句、下に下の句、歌の上には小さな連番で1から100まで。ボールペンの楷書で揺るぎがない。
 「ボケ防止ですから」。猪口に手を伸ばす方が多くて、あまり札は気になさらない。
 ゆっくり飲みたいときは、すすんで読み手を志願する。試合は源平である。